句会【亜流里】風羅堂の俳人たち
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第三回 播磨芭蕉忌フェスティバル
風羅堂跡
随願寺念仏堂の裏にある風羅堂跡。
井上寒瓜ら代々の堂主の墓が立つ

姫路出身の商人、俳諧師であった井上千山(風羅堂三世)は向井去来を通じて松尾芭蕉を姫路へ招く約束をしていたが、芭蕉の死により実現しなかった。
芭蕉の弟子であり、後継者といわれた広瀬惟然(風羅堂二世)とも交流があり、惟然から芭蕉像や遺愛の蓑などを譲り受け、姫路へ持ち帰り、増位山随願寺安城院に納め、蓑のこぼれで蓑塚を築いた。

千山の息子、井上寒瓜(かんか 風羅堂四世)は、芭蕉の遺品の管理場所として芭蕉の五十回忌に、随願寺念仏堂裏手、太子谷に風羅堂を建てた。以後、風羅堂は、芭蕉を風羅堂一世として、蕉風俳句の西の道場となり、播磨の俳人のみならず多くの俳人達の集う場所となっていく。
風羅堂は明治7年、流行病発生により焼却処分され、池内赭邱(しゃこう風羅堂十一世)を最後に断絶、現在に至っている。

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